偉人

元気が出る偉人のことば~本田宗一郎「ホンダはホンダの道を行く」~

今や世界中で自動車、オートバイメーカーの「HONDA」を知らない人はいません。

創業者の本田宗一郎は、浜松の町工場から一代で世界のHONDAにまで発展をさせました。

伝説は自転車を改良した2輪車の製造から始まった


戦後の混乱期に自転車に補助用のエンジンをつけて走る2輪車を作るところから始め、10数年を経て何と世界最高峰のマン島TTレースで優勝を飾りました。
また、スーパーカブ等の爆発的な売れ行きで2輪車国内販売台数日本一を達成しました。

F1マシンを見たこともない中で参戦を宣言


そんな中、4輪車への進出も表明したHONDAでしたが、社内ではまだ軽自動車しか開発していない時期に何と本田宗一郎は最高峰のF1レースへの参戦を宣言します。

そのとき、記者の質問に「ホンダは世界中が驚くような高性能エンジンを擁してF1で勝利するだろう」と答えています。

しかも驚くことに、このとき宗一郎本人を含めてF1マシンを目の当たりにしたことのある社員さえホンダにはひとりもいなかったのです。

その後、紆余曲折あったのですが、当時、F1界では常識破りの12気筒エンジンを作り上げ、テストでは世界のどのマシンにも負けない馬力を記録することとなります。

ただ、ここでひとつ大問題が浮上してしまいます。

直前にロータスが一方的な契約破棄

F1の世界では、車体とエンジンは別々の会社が契約してチームを組むことがほとんどで、HONDAは名門ロータス社とすでに契約がすんでいました。

ところが、本戦5か月前になって、突然、ロータスから一方的な契約破棄の知らせが届いたのです。

関係者一同、内心でF1参戦をあきらめました。

ホンダはホンダの道を行く

その時に宗一郎はロータスに電報を打つように指示を出します。
その文面が

「ホンダはホンダの道を行く」

だったのです。

誰もが社長もF1参戦をあきらめたことばだと感じたといいます。

しかし、

「オヤジさん。もう他社との契約は間に合いません。あきらめるしかないですね」

という言葉を聞くと宗一郎はこう言い放ちました。

「だれがあきらめるといった!車体もうちで作るんだ!」

ここまで、わずか3年で世界一のエンジンを作り上げており、そのことさえも奇跡的な出来事であると素人が考えてもわかります。

その上、5ヶ月で車体まで作ろうとするなんて、傍からみたら無謀を絵に描いたようなものです。

しかし、このチームはそれをやり遂げてしまうのです。

伝説の名車RA271の誕生

かくして伝説の名車RA271は誕生します。

そして1年目の挑戦はトラブル続きで結果はでなかったものの、翌年の1965年にHONDAは表彰台のトップを飾ることになるのです。

さらに1987年には因縁のロータス社(とウイリアム社)にエンジンを供給したHONDAは、英国グランプリで1位~4位を独占するという離れ業を成し遂げました。

本田宗一郎は亡くなる前に「大きな葬式はするな。自動車屋が交通渋滞を起こすような真似をしてはいけないからな」と語っていたといいます。この言葉ひとつとっても、宗一郎が我欲に走らず、他者のことや社会のことを第一に考えていたということがわかります。世界中が大気汚染に苦しんでいた1970年代初頭に、マスキー法という大気浄化法が可決されました。これは「1975年以降に製造する自動車から出される有害物質をこれまでの1/10以下にする」というとてつもなく厳しいものでした。アメリカのビッグ3(GM、クライスラー、フォード)は「開発は技術的に不可能である」として政治的圧力で施行延期をしようとしていましたが、HONDAはこれに技術的に立ち向かってCVCCエンジンを開発し、世界で初めてマスキー法をクリアしました。しかもこの技術を独占せずに公開し、世界的な公害防止に大きく寄与しました。ちなみに1987年にF1グランプリで表彰台を独占したときの総監督が、このCVCCエンジン開発のメンバーでもあった桜井淑敏氏です。

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