ライフハック

高校教師歴17年のセミナー講師によるちょっと心が楽になるかもしれない受験の心得

皆さんお元気ですか。
内山です。

日本では「学生」でもなく「若者」でもなく「受験生」とよばれる時期を誰もが経験しています。
他のことには一切目もくれず(目もくれさせてくれず)受験勉強なるものだけに勤しむ時期です。

今回はその「受験とはなんぞや」ということについて書いてみます。
少しでも気が楽になってくれるとありがたいです。

受験なるものの特徴

学校の先生はよく「個性を大切に」といいます。
個性は他の人とは違った何かですので、自分に対しても人に対してもこれを大事にするのはとても良いことです。

であるならば、個性にしたがって学校を自由に選んだりするのが最もよいのではないかと思うのですが、実際はそうもいきません。


受験は個性に則って行われるのではなく、同じ試験を受けた人たちが点数を競い合否を決めるので、個性を大事にするのとは全く逆の行為です。

つまり受験勉強とは自分らしさとは反対に、「誰でもできることに優劣をつけるための力をつける勉強」です。
そして、ほぼ全員がこれに参加しています。
その結果、ただの点数の序列で集められた人がクラスメートになります。

受験勉強は心が病むようにできている

人が行動を起すには動機づけ(モチベーション)が必要です。
動機づけには大きく分けて以下の2つがあります。

  1. 内発的動機づけ…内面に沸き起こった興味・関心や意欲によって生じるもので他者との比較などではなく自分自身の価値観から生じる。人間の持つ欲求のうち最も高位に位置する自己実現のために必要とされる
  2. 外発的動機づけ…評価、罰や褒美など他者からの報酬によって生じるもので他者との比較による事が多い。即効性のある場面で有効であるが「報酬を貰えなければやらなくなる」「結果にこだわりすぎる」などの弱点が多い

特に若い時期は内発的動機づけによって、心からの喜びを体験することがとても重要です。
そして、それを友人と共有したり分かち合ったりしながら損得勘定を抜きにしたコミュニケーションが成し遂げられていきます。
学校や家庭のまわりには遊びや部活動、そして何よりも学問というそれを実現する要素が溢れています。
事実、小学生のときはその価値観で動いている子どもはたくさんいます。

しかし、義務教育が終わりに近づくころに「受験」という声が聞こえてきた途端、動機づけが強制的に外発的にシフトされてしまうのです。

それは、
「受験勉強の点数によって賞罰が決められ、これまで同じ価値観で遊んだり、喜びを共有してきた仲間が、受験というたった1つの価値観でライバルになることを強制される」
という状況が惹き起こされるためです。

さらに部活動や恋愛や遊びまで禁止され、
「受験勉強さえしていれば美徳である」
といった風潮が加速していきます。

人は元来内発的動機づけによって自己実現の欲求を満たし幸せや安らぎを感じることができるのですが、「1点でも人より多く」と外発的動機づけを全員が強いられることは、心に数々の矛盾と歪を生じさせる要因となります。
たとえば自分の「第一志望」の学校が仲の良い友だちの「すべりどめ」だったりすると微妙な空気になってしまったりします。
苦手なことも強要されるので「おちこぼれ」などということばも普通に使われるようになります。

「誰よりも速く走れる子」や
「人が羨む絵をかける子」が
計算が遅いからといって何が「おちこぼれ」なのでしょうか。
ひとつの価値観の窓からみるとこれが正論に聞こえるのですから恐ろしくもなってきます。

このような理由から、私は受験勉強に没頭すればするほど心が病んでいくのではと考えています。

なぜ受験勉強を頑張るのか

では、なぜ国民全員が受験勉強を頑張るようになったのでしょうか。

それは、昭和の戦前戦後の教育のあり方にさかのぼります

日本全国、空襲で都市が焼け野原になり、
国自体の存続が危ぶまれた時期は、
社会の構造をピラミッド型にして
一人ひとりが個性的であるより、
いわれたことを着実にこなすことが
必要な能力とされていました。

というより、そうしなければ日本の復興はできなかったのです。

日本人は、その勤勉さと着実性からそれを見事に成し遂げて先進国の仲間入りをしました。
そのときに使われたのが「受験」つまり「誰でもできるが点数を着けることができる仕組み」なのです。
受験で点数を取れた人をピラミッドの上に配置し、生活の保証をしリーダーにする、ということですね。
しかも、いわゆる「読み書きそろばん」の能力によって競わせるので国民全体の学力向上もできたわけです。

なので、受験が出現したことが悪いこととはいいません。

しかし、昭和、平成、令和と時代が変わっていき、人と違うこと、つまり個性を大事にしたいという人がとても増えてきました。
ならば、その社会を実現すればよいのですが、日本人の勤勉さは、変化をも嫌い、受験の制度はあいかわらずのままなのです。

では受験をどう考える?

受験生は、気づいたら受験生にされているので、本当に悩み深い時期だと思います。

ただ、社会の仕組みが変化していないので、せめて各自が楽になれるようにしていかなくてはならないでしょう。


人によって、さまざまでしょうが、たとえば以下のように考えてみてはいかがでしょうか。

  1. 受験はゲームと割り切る…そもそも、受験勉強で評価されるのは「その学校が出した問題を何点分解けたか」ということのみです。地頭が良いか悪いかとか、性格が優しいとか、コミュニケーションがうまいとか、リーダーシップがあるかとか、人間性がどうかとかは全く関係ありません。昭和の時代は受験勉強のできた子を「そのすべてが優れていることにしよう」といった風潮がありましたが、現在ではそんなこともありません。なので、純粋にその学校が求めている問題を解くゲームをしましょう。「そんなことでは学問的に身につかない」なんてことはこの際無視します。「自分の能力」を測られているのではなく「受験というゲーム」の点数を出されているだけだと割り切ってみましょう。結果は結果です。そのときに考えましょう。そもそもゲームなのですから、誰が受かっても誰が落ちてもあなたの心での関係性に影響は及ぼさないはずです。
  2. 受験という考え方をやめてしまう…受験に限らず日本では「試験前は〇〇中止」という制度があります。「勉強に集中させるため」と先生はいいますが、私はこれには大反対です。そもそも、その後の人生に、これほど準備万端整えてくれることなどありません。考えても見てください。同時にたくさんの案件が舞い込むこともあります。災害がきてリーダーになることもあります。そんなときに、「準備が整わないとできない人材」になっていたほうが良いのでしょうか。日常的に自分なりに学問を極めて、自分が信じる学校を受験して結果を待つ、という考え方もありかと思います。専門的に受験勉強をしている人ほど点は取れないかもしれませんが、卒業後の人生はこちらのほうが有望かもしれません。
  3. 受験するかどうかからきちんと考える…そもそも「自分にとって進学は何を意味するのか」をまず深堀りしてみます。行き詰まったらできるだけたくさんの人に答えを求めてみてください(正直あまり期待できないと思いますが、それも経験です)。自分なりの答えができるだけ内発的動機づけに近づくものになってくれればよいかと思います。「人より少しでも良い学校へ」といいますが「良い」の定義は何でしょう。
    「自分にとって受験勉強の点数は何を生み出すのでしょう」そんなことも考えてみてください。受験の先にあるものはゴールではなくスタートです。そこからじっくり考えてみましょう。

まとめ

  • 受験は個性ではなく「誰でもできること」に順位をつけるもの
  • 受験勉強は個性が発揮できないのですればするほど心が辛くなっていく
  • 受験勉強が制度化されたのには戦後の復興という理由があった
  • 各自で受験に対する楽な考え方をしたほうがよい
  1. 受験はゲームと割り切る
  2. 受験という考え方をやめてしまう
  3. 受験するかどうかからきちんと考える
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