みなさんおかわりないですか。
内山です。
中国の故事は本当によく使われます。
百聞は一見に如かず
背水の陣
朝令暮改
蛇足
などなど、あげていけばきりがありませんが、
「四面楚歌」
ということばも日常的によく聞きますよね。
これは400年の歴史を持つ漢を建てた劉邦の宿敵だった楚という国の王、項羽が最期を迎えたときにできたことばです。
項羽は、豪胆で武将として無敵の強さを誇っていました。
しかし、劉邦に比べると単純で政治力には長けていませんでした。
その結果、最後は非業の死を遂げます。
「勝てば官軍」で歴史は劉邦を中心に語られることが多いですが、
筆者はそんな一本気な項羽の生き様が嫌いではありません。
項羽の最期と四面楚歌
四面楚歌というと
「まわりが敵ばかりで孤立して身動きができない状態」
を表す故事として現在でも日常的に使われています。
そのことばが生まれた背景はどのようなものだったのでしょうか。
秦の始皇帝の死後、各国が覇を争い最終的に楚(項羽)と漢(劉邦)の2国の戦いとなりました。
楚漢の戦いは5年にわたって繰り広げられますが、劉邦は項羽を追い詰め垓下の地で包囲します。
ここで持久戦となり、楚の兵糧が底をつきはじめて兵士たちの気力が失われつつあったとき、項羽は自らが先陣をきって突破することで形勢を立て直そうと決心をするのです。
実際項羽の強さは桁違いでしたから、これが実行に移されていたら歴史は変わっていたかもしれません。
しかし、劉邦の軍師がそれを察知し劉邦はある心理作戦にでます。
「四方を包囲している漢の兵士たちに楚の歌を歌わせて楚の兵士たちの望郷の念を駆り立てさらに戦意を喪失させる」
というものでした。
兵士たちは10年も故郷に帰っていないのです。
果てしなく続くこの歌声は空腹で厭戦状態にある楚の兵士たちの心に響きました。
そして、兵士たちは次々と陣を逃げ出していくのです。
このとき、敗走の兵を捕まえるのは漢にとってはたやすかったかもしれません。
しかし劉邦は敗走兵を黙って通したということです。
結果的に、楚の10万の兵はわずか800人となり勝敗は決したのです。
項羽を倒した劉邦は、その後400年に渡り中国を治める漢王朝の基礎を築くこととなります。
四面楚歌という故事はこの「垓下の戦い」の逸話から生まれました。
項羽の最期と虞美人草
項羽には愛してやまない虞姫(ぐき)という姫がおりました。
その美貌から人々は虞美人と呼んでいたそうです。
垓下の戦いで項羽は虞姫をなんとしてでも逃がそうとしますが、虞姫はそれに従わず項羽の前で自害して果てます。
項羽は、数百の兵とともに玉砕戦に出ますが、もはやかなうわけもなく最後はわずか28騎を伴う逃避行を強いられます。
この項羽をあわせた29騎の戦いは凄まじく歴史に名を残す戦いとなりましたが、
最後は項羽ひとりとなり、敵兵の前で自らの命を絶ちました。
その後、項羽と虞姫の逸話はさまざまな物語で語り継がれることとなります。
虞姫のお墓から一輪のヒナゲシが咲きました。
そのことから人々は虞姫の死にちなんで、この花を「虞美人草」と呼ぶようになったのです。
まとめ
日本でも四面楚歌の状態で最期を迎えた武将は数限りなくおります。
織田信長
明智光秀
武田勝頼
豊臣秀頼
などなど
どんなに栄華を誇っても「盛者必衰の理」といわれるように状況がかわれば人も変わります。
ちなみに中国平定のあと劉邦の配下の武将たちも内紛を起こすようになり「国士無双」と呼ばれた韓信でさえ裏切りにあって暗殺されてしまいます。
項羽はある意味、源義経に通づるところがあると思っています。
政治家としては成就できなかったものの、生き様はとても魅力のあるものに映ります。